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丹下健三の誕生日 東京カテドラルにて

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上京してきて最初の衝撃が、東京カテドラルだった。

1年生の初夏、試験が早くおわった仲間たちと、太陽に負けそうになりながら

東京じゅうを歩いて建築を見て回った。

カテドラルに辿り着いたあとは、誰も話さずに何時間もそこにいた。

SOFT ARCHITECTURE @ St. Mary’s Cathedral, Tokyo

ギリシャ帰りの中村しょうちゃんと、カテドラルにいった。

9月4日は丹下健三氏の誕生日。

ちょうど時期重なって、展示会をやっていた。

大空間のなかでパイプオルガンが演奏され、音楽に光が呼応して、

幻想的な空間があらわれていた。

カテドラルがいっそう浄化の力を持って沢山の人を留めているみたいだった。

礼拝堂の椅子で目を閉じる人、床に座って見上げる人。

地下聖堂に設計主旨や建設の経過が展示されていて(普段は入れない)

丹下氏がカトリック教会の精神をいかにあらわすか、

街の中心としての場の設計をどうつくりあげていったかが記述されていた。

順路を回って、丹下氏のお墓の前に来たときに。

2005年、彼が亡くなったときの磯崎新の弔辞が展示されていた。

打たれた。転載します。

丹下健三先生

先生の手がけられた数多くの建築のなかでも、とりわけ気品にあふれ聖なる空間へと昇華したかにみえる、もっとも気に入ったおられたに違いないこの東京カテドラルに、今日は大勢の弟子どもが参集しております。

おわかれに来たのではありません。たった一言でもいい。最後のお言葉を聞きたい。<建築>そのものに化身されていた先生のお言葉がまだ聞けるのではないか、そんな想いでここにいるのです。

お前たち、本当に俺の弟子か、とにが笑いなさっているかも知れませんが、私たちは皆、そのように考えております。あるものは直接手をとって教えていただきました。あるものには鋭く行く先を示されました。あるものは、はるかにお仕事ぶりを拝見して、先達と心に決めてまいりました。

だが不肖の弟子どもよ、とお叱りを受けそうな気がします。このうち誰が、先生の抱かれた壮大な構想のほんのかけらでも受け継ぎえているのか、みずからかえりみて忸怩たるものがあります。

建築することとは、単に街や建物を設計することではない、人々が生きているその場のすべて、社会、都市、国家にいたるまでを構想し、それを眼に見えるように組みたてることだ。これが、私たちが教えて頂いた<建築>の本義であります。

先生はこの本義を体現されていました。 <建築>の化身だと私が考える由縁であります。

丹下健三先生が活躍を始められた20世紀中期の日本では、国家がそのような建築を望んでいました。先生の比類なき構想力が思う存分発揮されました。このとき日本の近代建築は世界のものになりました。今では、20世紀の世界の建築史はケンゾウ・タンゲの名前をはずして語れなくなったといえるでしょう。我が師の栄誉をたたえよう、

弟子どもだけでなく、日本という国家もそういうでしょう。

だが、と柔和な顔をされながら、鋭い眼の奥底から、わが師は語りかけられているように私は感じているのです。

君たちはいったい、これから何をやろうとしているのかね。私は半世紀以上も前にこの国家の肖像を描いてやったのだよ。何ひとつ満足できる時代じゃなかった。そんなきびしいなかでも<建築>するという志さえあれば、その肖像は生み出すことができた。ところがこの満ち足りた時代になってみたら、日本という国家はさまよっている。

<建築>が消えている。

わが弟子たちよ、いったいどういうわけなのだ。

丹下健三先生はこういって、嘆かれていると私は思うのです。

ウィルという言葉には意思とともに、遺言という意味があります。先生が遺された作品の数々がそのままウィルにあてうるでしょう。だがそれだけではない。もうひとつの意味である意志、つまり<建築>を構築しようとする意志、それを忘れてはいけない。

半世紀に渡ってひとりの弟子として師事したあげくに私はやっと、これだけの推量ができるようになりましたが、不肖の弟子のひとりとして、これが並々ならぬ難問であることがいま身にしみてきつつあります。

そこで、私は誰もが口にする、やすらかにお眠りくださいという決まり文句をいいたくありません。

丹下健三先生、眼をみひらいて、見守っていてください。

弟子どもが道をふみはずさずに、先生の遺志をついで行くことができるかどうかを。

弟子の甘えで、申し上げました。

弟子のひとり
磯崎新

できるだけ、来たいのだ。この場所には。