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寿町

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ピクニックの前日のこと。

寿町をみにいった。例の神田の五人衆。

寿町は、日雇い労働者の宿泊場、ドヤ街としての成り立ちを持つ。
石川町の駅からほんの数分。大きな通りを超えた瞬間に、街の空気が変わる。

ここは日本なのか、と疑うほどの空気、景色の変化。

まちづくりシンポジウムで、隣でパネリストをした方が
この街に新しい顔をつくろうと事業を行っていた。

日雇い労働者で栄えたかつての顔はもうなく、働けなくなった老人たちが
生活保護を受けながら住み続けている。
50%以上が65歳以上。
この一角に経つ建物は、新築も全てが3畳ハウス。
とても奇妙な間取りをしている。外付けの空調の間隔がおかしい。
ドヤの労働者、元労働者のためだけの建物。
でも、このまま高齢化が進めば、この建物はなんのためのものになる?

最近では、若者の生活保護者も街に入りだしたらしい。
若者と老人では、同じ環境でも向かう方向がちがう。エネルギーが屈曲する。

新しく町に入った者と、かつてからいる人々との棲み分けがあった。
その絶妙なバランスを保ちながら、彼はこの町にどう働きかけるか悩んでた。

そのあと、ふらりと黄金町にも足を伸ばした。
「アートによる街の再生」をおおきくうたっている町。

あまりの違いに驚いた。かつて風俗店が並んでいたであろう高架下は、
ガラスと木材でいわゆるオシャレな空間に作り替えられ、
高架の向かいの家並みにも、アーティストの小店のはみ出しが起きていた。
はみだしは、まちづくり的には一つの成功指標。ではあるのだけど。
寄り添うように人が入る町と、主役として入る町。

寿町と黄金町のちがいは、共存するか、撤廃を目指すか。

2つの街の重さを体じゅうにまとって、秦野にむかった。

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幸せの風景を絵に描いたような秦野のまちの、年に一度のお祭り。
竹の職人の作品。

お祭りの日。あの土地の魅力が街中にあふれていた。
代え難い理由のひとつをみつけた。
ここはきっと、貴重な場所なのだと思う。


SENSEWARE

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秋晴れが気持ちいい日が続いてる。
代々木公園。子供たちがはしりまわって、青春してた。

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ガパオ、シーハビールで芝生ランチ。
乃木坂に移動したら、野菜市場にでくわした。
だいすきなトマトと梨を手にいれて、21_21 DESIGN SIGHTにむかう。
またも、芝生にねころぶ。さいきん、芝生にでくわすこともふえた。

21_21でSENSEWAREをみてきた。 http://tokyofiber.com/ja/
デザイナーや建築家が、日本の人工繊維の可能性をさぐって表現した試み。
ミラノトリエンナーレで大反響を得た同展の、凱旋展。

日本が古くから誇る繊維業、その先を、開発者・デザイナーが
一体になって取り組んだ。
技術と繊細なデザインの融合が、とても日本らしいとかんじた。

産業の歴史にはうとい、が、
繊維業は、私の地元北陸が繊維バレーと呼ばれた場所であったこともあって、
身近な産業のひとつだった。
地元でいちばんおおきな企業も繊維業で、おばあちゃんの機織りもよく見に行った。

隈研吾の、光ファイバーを埋め込んだコンクリートの素材が、
全く新しい空間表現をしていた。
「建築の意味すら変える可能性がここにある」
技術が可能にする表現。

また芝生でのんびりして、帰宅。
手に入れたトマトで、おいしいごはんをたべた。

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丹下健三の誕生日 東京カテドラルにて

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上京してきて最初の衝撃が、東京カテドラルだった。

1年生の初夏、試験が早くおわった仲間たちと、太陽に負けそうになりながら

東京じゅうを歩いて建築を見て回った。

カテドラルに辿り着いたあとは、誰も話さずに何時間もそこにいた。

SOFT ARCHITECTURE @ St. Mary’s Cathedral, Tokyo

ギリシャ帰りの中村しょうちゃんと、カテドラルにいった。

9月4日は丹下健三氏の誕生日。

ちょうど時期重なって、展示会をやっていた。

大空間のなかでパイプオルガンが演奏され、音楽に光が呼応して、

幻想的な空間があらわれていた。

カテドラルがいっそう浄化の力を持って沢山の人を留めているみたいだった。

礼拝堂の椅子で目を閉じる人、床に座って見上げる人。

地下聖堂に設計主旨や建設の経過が展示されていて(普段は入れない)

丹下氏がカトリック教会の精神をいかにあらわすか、

街の中心としての場の設計をどうつくりあげていったかが記述されていた。

順路を回って、丹下氏のお墓の前に来たときに。

2005年、彼が亡くなったときの磯崎新の弔辞が展示されていた。

打たれた。転載します。

丹下健三先生

先生の手がけられた数多くの建築のなかでも、とりわけ気品にあふれ聖なる空間へと昇華したかにみえる、もっとも気に入ったおられたに違いないこの東京カテドラルに、今日は大勢の弟子どもが参集しております。

おわかれに来たのではありません。たった一言でもいい。最後のお言葉を聞きたい。<建築>そのものに化身されていた先生のお言葉がまだ聞けるのではないか、そんな想いでここにいるのです。

お前たち、本当に俺の弟子か、とにが笑いなさっているかも知れませんが、私たちは皆、そのように考えております。あるものは直接手をとって教えていただきました。あるものには鋭く行く先を示されました。あるものは、はるかにお仕事ぶりを拝見して、先達と心に決めてまいりました。

だが不肖の弟子どもよ、とお叱りを受けそうな気がします。このうち誰が、先生の抱かれた壮大な構想のほんのかけらでも受け継ぎえているのか、みずからかえりみて忸怩たるものがあります。

建築することとは、単に街や建物を設計することではない、人々が生きているその場のすべて、社会、都市、国家にいたるまでを構想し、それを眼に見えるように組みたてることだ。これが、私たちが教えて頂いた<建築>の本義であります。

先生はこの本義を体現されていました。 <建築>の化身だと私が考える由縁であります。

丹下健三先生が活躍を始められた20世紀中期の日本では、国家がそのような建築を望んでいました。先生の比類なき構想力が思う存分発揮されました。このとき日本の近代建築は世界のものになりました。今では、20世紀の世界の建築史はケンゾウ・タンゲの名前をはずして語れなくなったといえるでしょう。我が師の栄誉をたたえよう、

弟子どもだけでなく、日本という国家もそういうでしょう。

だが、と柔和な顔をされながら、鋭い眼の奥底から、わが師は語りかけられているように私は感じているのです。

君たちはいったい、これから何をやろうとしているのかね。私は半世紀以上も前にこの国家の肖像を描いてやったのだよ。何ひとつ満足できる時代じゃなかった。そんなきびしいなかでも<建築>するという志さえあれば、その肖像は生み出すことができた。ところがこの満ち足りた時代になってみたら、日本という国家はさまよっている。

<建築>が消えている。

わが弟子たちよ、いったいどういうわけなのだ。

丹下健三先生はこういって、嘆かれていると私は思うのです。

ウィルという言葉には意思とともに、遺言という意味があります。先生が遺された作品の数々がそのままウィルにあてうるでしょう。だがそれだけではない。もうひとつの意味である意志、つまり<建築>を構築しようとする意志、それを忘れてはいけない。

半世紀に渡ってひとりの弟子として師事したあげくに私はやっと、これだけの推量ができるようになりましたが、不肖の弟子のひとりとして、これが並々ならぬ難問であることがいま身にしみてきつつあります。

そこで、私は誰もが口にする、やすらかにお眠りくださいという決まり文句をいいたくありません。

丹下健三先生、眼をみひらいて、見守っていてください。

弟子どもが道をふみはずさずに、先生の遺志をついで行くことができるかどうかを。

弟子の甘えで、申し上げました。

弟子のひとり
磯崎新

できるだけ、来たいのだ。この場所には。


高円寺純情商店街

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今日は、朝からとてもいい時間を過ごした。

ごはんをつくって、おそうじして、洗濯して、本を読んで、

期日前投票に行った。11時。

お昼から高円寺だった。このカフェすきなのだ。

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高円寺純情商店街。

赤い実がはじけてしまう。

おいしいごはんをたべた。

とまったり進んだりしながら、下地をつくっていることがある。

今日は阿波踊りの日。

あしたはだむだん連みにいきたいなあ。

安藤くんとすれ違い。二次会の話もだいぶ進んだ。